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リサコラム
本日のオードブル
第47回

1杯のコーヒーから 
木村里紗子のプロフィール

マダム・ワトソンに1990年より勤務し、400名以上の顧客を持つ販売員。
大小あわせて、延べ1,000件以上のインテリア販売実績を持つ。
著書”シンプル&ラグジュアリーに暮らす”(ダイヤモンド社)(06年6月)がある。
道楽は、ベッドメイキング、掃除、いろいろなインテリアを考えだすこと。
新リゾートホテルにいち早く泊まること。
15年来のベジタリアン。ただしチーズとシャンパンは大好き。甘いものは苦手。
アマン系リゾートが好き。好きな作家は、夏目漱石、檀ふみ、中谷彰宏、F.サガン
    
     「今日は、第2のドアと第5のドアにするわ」

 

       

1杯のコーヒーから



 夜も10時過ぎだというのに、ねっとりと生熱い空気が肺の中を満たす。STAF

専用のl扉から1歩外に出た私は、静かになったあたりの空気をもう一度吸い込

む。花火大会も終わり、夏祭りも終わり、お盆の前の空虚な湿気を胸一杯に吸

い込んで、げっそりした気分を確認するために。「いよいよ、あの夏がやってきた

のね」日本の夏は、生暑さの夜と、べっとりとした湿気がお似合い。


 自宅に帰り熱いシャワーで汗を洗い流した後、「そう、毎年8月に雨の多いザ

ルツブルグでは、こんな夏の日々が展開されていたんだわ」とある本を思い出し

て、小さいスツールを持ってくると、ベッドサイドの書棚の一番上から、1冊の古び

た本を引き抜く。この本を私に紹介してくれた彼は、都内のアパートにひとり暮ら

ししながら、理科の教師をしている。知り合ってもう20年にもなる。学生時、東

京のJRお茶ノ水駅から徒歩8分の神田駿河台にある“アテネ・フランセ”という

語学学校で共に学んだ友人だ。彼は精神分析学から純文学、ミステリーまでい

ろんなジャンルの面白い本を見つけては私に読めと、薦めてくれていた。


 ねっとりとした夏のこの時期になると、彼と共に紹介してくれたある1冊のユーモ

ラスな本を思い出す。夏の読書は難しい。いつ終わるともしれないセンテンスの

長く難しい文章も、複雑な人間模様も読む気がしない。夏に読む本は、抱腹絶

倒、読後はかき氷を食べたような清涼感で肺の中も満たされる感じが欲しい。


 ということで毎年べっとりの夏が来るとこの本を持って行きつけの美容室に行く。

そうして予約の電話で、ハンドマッサージとシャンプーしかできない彼女を、私は

いつも指名する。彼女はいつものように私に1杯のコーヒーを持ってくる。私は、

そのコーヒーを飲みながら、片手でその小説を持ち、もう片方の手を彼女の手に

ゆだねる。



 毎年8月に開催される有名なザルツブルグの音楽祭。ロンドンに住むカールと

ベルリンに住むゲオルクという2人の親友が巻き起こす、ユーモラスな夏の休暇

物語。『一杯の珈琲からーエーリヒ・ケストナー/小松太郎訳―創元推理文庫』

約7ミリの薄さを誇るその本は、“一杯の珈琲から” の後に作者により、“または、

ゲオルク・レントマイスターの小さな国境往復”とサブタイトルがつけられている。 

1938年初版。戦争中没収を免れるために、この本は国外に出され、1948年

再版。すでに70年もの時を刻んで、いまだなお、生き生きと麗しいこの序文から

始まる。


 「親愛なるゲオルク!きみは自分の日記が印刷されたことを夢にも知らないで

いる。ぼくはこの原稿をひと手に渡す許しをきみから得ていない。印刷させる許し

など、なおさらだ。きみがほかの作家たちより、悠々と贅沢な暮らしをしなくちゃ

ならぬという理由が、なぜあろう?」 そして、カールこと、著者のケストナーは、

ゲオルクという驚嘆に値する人物の紹介をする。「彼はずっと著述家として仕事

をしているが、それでいて今日まで、彼の書いたものは一行も発表されていない

のである。それはゲオルクが鉄のような不屈の精神を持ちながら、彼の著作を

最後まで書き上げないという理由によるものである。」ゲオルクは自宅に5つの仕

事部屋を持っている。彼の仕事の1つには、「『古高ドイツ語、中高ドイツ語及び

初期新高ドイツ語の文章の構造を考察せるドイツ語の接続法について』というも

のがある。彼の“接続法の仕事部屋”のドアには“consecutio temporum!”

(目下の結論!)という、人を嚇かすよう標題のついた札がぶら下がっている。」

その次のドアには「古代およびキリスト教!」と書いてある。3つ目のドアには同じく

“速記術”という札がぶら下がっている。彼の速記術によれば、一分間に300綴

りを速記できるそうだが、どんなせっかちな講演者でも1分間に250綴り以上は

しゃべれないから、「3百綴りを速記するという計画の意味は無論わたしには完

全に理解できない。」とカールは述べる。


 ”この薄気味の悪い男”ゲオルクは、5つの机と5つの原稿用紙の束と5つの書

物の山の部屋を行ったり来たりしながら瞑想に耽る日々を送っているのである。

ある大工場の共同相続人である兄がいくらでも金を出してくれるため、「ゲオルク

は超然としている」。ベルリンの5つの部屋からめったに姿を見せない彼が、接続

法と、古代と、速記術と、キリスト教を離れ、音楽の都ザルツブルグでつけた日

記がこの『1杯の珈琲から』になったというものだから、面白くないはずがないでは

ないか!                  
                              


 ゲオルクは、ザルツブルグから国境をはさんだドイツの町ライヘンハルに宿を

取る。為替管理法により、当時ドイツ側から毎月10マルク以上は持ち出せなか

ったため、ドイツからゴージャスな弁当持参で芝居をオーストリアで見て、朝食と

夕食と寝るのはドイツという日々。こうしてゲオルクはひとつきの間、国境を往復

する喜劇的な夏の休暇を過ごすことになる。お金の心配をしたことのないゲオル

クは1ヶ月に消費しえる十マルクをたった1日半で使い果たしてしまう。「わたし

のがま口の前に来たものを、手当たり次第みんな買ってしまったのだ。明日から

はクリーム入りのコーヒー一杯飲みたくても、カールの恩寵と慈悲に頼る以外に

途はない」ことを悟る。


 ゲオルクの隣で、ゲーテの“ファウスト”を鑑賞していたアメリカ人女性が、そこ

で出会ったアメリカ人男性に聞く。“Do you understand a word?”(一

言でもお解かりになりまして?)すると男性は、“N0”と答える。世界各地からザ

ルツブルグ音楽祭に集まったハイソな人々のハイソな雰囲気をまったく感じさせ

ずに、物語は、“ドイツでは大富豪、オーストリアでは一文なし”のゲオルクと、“

腹の減るのを予防するために、腹の減らないうちにものを食べ始める主義”のカ

ールとともに、調子はずれのリズミカルさで駆け抜ける。
                  


 「木村さん、ペンが1本増えましたよね」私の手をマッサージしていた彼女は、

目ざとくも鏡の前に置いた私の電話を目で指し示す。私のケイタイについた赤・

黒2本のぺンは、カール同様、“いつ何時電話が鳴ってもあわててペンを探すこ

とを予防する”ためにあるのでもなく、“いつ何時本に線をひきたくなっても、困ら

ないために”ある。つまり、私の電話は赤ペンと黒ペンをつなぎとめるキーホルダ

ーの役目である。そういう訳だから、たいていは、電池切れの真っ黒い画面にな

っている。展示会や、お客さまのお宅に私が出かける前に“連絡がつかなくなる

のを防ぐために”店長とK君は仕方なしに私の電話に充電せざるを得ない役目

も担っている。                                       


 もう片方の手のマッサージも終えた彼女に、「私が大富豪になったら、専属の

美容師に雇うからね。カットは別のところでしてもらうから。」とちょっとだけチップ

を渡す。20年たっても大富豪の気分にさせる厚さ7ミリの本と、1杯のコーヒーに

なごやかな満足と清涼感を感じながら、カールのような旧友をまた思い出し、

幸せな時代に生まれたことに、また感謝する。                   





















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木村里紗子 Risaco





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