バスローブの襟を合わせると、統子は一人掛けソファに深く座り直し、脇のテー

ブルの分厚い本を両手で注意深く膝の上に乗せた。それから優美な所作でグラスの

特別な水を口に含んだ。そして、今回もうまく闖入者を追い払ってこの静かな時間

をしばし独占できると内なる声が聞こえたとたん、いや、追い払ったのではない、

自分の統計の正しさをちょっと試しただけだと別の内なる声が反論した。トウコは

自分の名につけられた「統」のついた「統計」がとても好きだった。


　　　　　　　　　　　　　


　そして闖入者というのは、ついさっき、隣のソファから立ち去った女性で、ケイ

といい、大した面識でははなかったが、つい先日、この高級なスポーツジムのロッ

カールームで２、３ハートウォーミングな社交辞令を交わした相手だった。むろん

追い払ったと言ってもケイに対して失礼な態度をとったわけでもない。相手がただ、

自分の話を聞きたくなくなって立ち去ったに過ぎない。トウコは水のしずくを優雅

に一口ずつ喉に流し込む間にそんな言い訳を５,６個ほども思いついた。


　　　　　　　　　　　　　


　トウコは毎朝決まってこのスポーツジムのドアが開く午前５時３分前に、地下駐

車場のB31に車を止めて、エレベーターで６階のスパにやって来る。準備体操をし

た後で、５０ｍプールを5往復すると水から上がり、シャワーを浴びてからプール

サイドで一休みする。そこで持参したピケティの『２１世紀の資本』のしおりのペ

ージを開く。それから午前７時半まで、一文字一文字ありったけの脳力を使いなが

ら読み進める、いや、それはほとんど謎解きに近かった。そして7時半、プール脇

のエステルームにエステティシャンがやって来ると二つ並んだベッドの左側のベッ

ドで毎日、日替わりのスペシャルショートコースをやってもらう。月曜日はアーユ

ルベーダのフェイシャル、火曜日はスペシャルボディパック、水曜日はスレンダー

レッグス…スペシャル会員は全のメニューが平日料金の２０％Offになる。そうし

てエステティシャンと途切れ途切れにしゃれた会話を楽しみながら約５０分間の至

福の時が終わると、トウコはバスローブの襟をかき合わせて、ロッカールームへ向

かい、念入りに化粧をして、またB３１に止めたシトロエンに乗り会社へと向かう。

これが毎朝変わらないトウコの習慣だった。


　　　　　　　　　　　　　


　しかし問題のその朝、５時３分前にいつも通り駐車場にやってくると、B３１に

は見慣れない車が止まっていた。トウコはすぐに車種、年式、色、車の状態をタブ

レット端末に打ち込み、車の持ち主の特徴の推測をした。それからいつも通り５０

ｍプールを５往復するとシャワーを経てプールサイドの黒白レジメンタルストライ

プのひじ掛け椅子に納まった。するとそこにサウナから出てきてシャワーを浴びた

後の雰囲気を漂わせたケイがトウコの横の同じ形のソファに腰を下ろしたのだ。ト

ウコはすぐにB３１に車を止めた人物に違いないと予想した。そしてこの人物には

パターン５の「ことの発端はですね」から始めればうまくゆくと統計上の予測パタ

ーンを導き出していた。


　　　　　　　　　　　　　


　二人はごく普通の朝の挨拶から始めた。「朝のこの時間帯はまだ誰もいないので

すね～今日はたまたま来たもので」とケイが口火を切った。トウコは誰もいないと

いう言葉に違和感を覚えながらも聞いた。「どなたかのご紹介ですか？」「ああそ

うです。取引先の方からの」ケイはさらっと答えるとすぐに聞き返した。「こちら

には長く？」「ええ、そうですね。まあ、常連、そう言えると思います」「やっぱ

り、どなたかからのご紹介ですか？」ケイはトウコの脇のテーブルに置いてある分

厚い本をちらと見ながら言った。相手は早くも射程圏内にやって来たとトウコは思

った。


　　　　　　　　　　　　　


　「いえね、実をいいますと、ことの発端はですね、私の家の隣にある方が越して

きたことなのです。それも子供の頃からのライバルでして、それでね、話せば長く

なるんですが、」そこまで言ったあとで、トウコはわざとゆっくり水を飲んだ。予

測通り、相手はそわそわし始めた。朝からそんな面倒そうな話に付き合うつもりは

ないという意思表示だとトウコは思った。


　　　　　　　　　　　　　


　「あっ、ちょっと待ってくださいね、お話しの途中で。すみません、ロッカー室

に忘れものをしてきてしまったみたいで」そう言うとケイはすっとソファから立ち

上がり、そして小走りにすっとプールから消えたのだった。


　　　　　　　　　　　　　


　トウコはその静かなプールの水面を眺めながら、しばらくはこの空間を独占でき

ると思った。１０分ほど経ったころ、ピケティの今日の２ページ目を読み進めたとこ

ろで、ケイがまた小走りに戻ってきて元のソファに腰かけると「すみません。先ほ

どは中座してしまって。メガネを忘れたもので。メモとペンも忘れたことないんで

けどね」と言って、ケイはローブのポケットから取り出して見せた。「それとさっ

きから気になっていたんですが、あなたのその本、ピケティじゃありません？私も

法律とか社会、経済学の本は好きなんです。統計に基づいているものは特に。私の

名前が計（ケイ）だからというわけじゃないんですけどね」トウコはあっけに取ら

れ、反対にケイの目にはトウコに対する好奇心の光がきらめいた。


　　　　　　　　　　　　　


　ケイはトウコを促すように言った。「そのライバルの方が引っ越してきて、それ

でどうなったんです？ああ、いえ、仕事柄、そんな偶然のストーリー性のあるもの

に興味がありまして」ケイはさらに瞳を輝かせてペンを構えた。



　　　　　　



　上のイラストから、「リサコラムの部屋」に入れます。

p.s.1
　　今回から新たなシリーズをはじめました。
　トマ・ピケティの「２１世紀の資本」は読破したわけではありません。
　読破するためにいろんな下勉強を経て、そして、素敵なスパとラウンジのあるジムで
　早朝に静かに読めたらいいな～と思って書きました。

　「もの、こと、ほん」は下の写真から。

　　　　　　　　　　　　

p.s.2
　　　　E-Book「Bedroom, My Resort　 リゾコのベッドルームガイド」
　　　どこでもドアをクリックして中身をちょっとご見学くださいますように。

　　　　　　　　　　　　　　　　　



　　バックナンバーの継続表示は終了いたしております。

　　書籍化の予定のため、連載以外のページは見られなくなりました。

　　どうかご了承くださいますように。