「ここはね、以前、映画の舞台になったらしい…」Mと胸に刺繍が入った愛用の

セーターを着た男性は首を９０度傾けてバルコニーにいる妻のクリスティーヌに

言った。

　　　　　　　　　　　　　　

　クリスティーヌとは二人が飼っていた犬の名前だったが、数年前に他界して以

来、その名は妻のニックネームとして定着した。しかし、バルコニーのテーブル

でアフタヌンティを楽しんでいるクリスティーヌ夫人はピクリとも反応しなかっ

た。

　　　　　　　　　　　　　　

　「もう、ずいぶん前だけどね、偶然テレビで見た映画の解説でさ、ほら、あの

淀川長治さんが言ってたんだよ」クリスティーヌは両手に持った紅茶椀と一緒に

「ふん、ふん」と賛同する感じで、２、3回上下に軽く頭を振った。


　　　　　　　　　　　　　　　


　「そう、そう、あの『さよなら、さよなら』のおじさんだよ。もうずいぶんな

るよね、彼が逝ってしまってからね。あの時代はよかったよね。もう、彼のよう

な解説者は出ないだろうね。だってさ、テレビで映画が始まったとたん、みんな

手元で検索始めるからね、つまんないことこの上ないけどね」Mは部屋の中から

ガラス越しのクリスティーヌの方に首を９０度傾けて、左右に２、3回振った。


　「あの時代は楽しかったよね。地球上でもっともましな時代だったろうね。当

時はみんないとも簡単に公に発言することを知らなかったけど、それでも不自由

は感じなかったよね。平和で穏やかな時代だったんじゃないかな？」Mは手に持

ったペンで紙にさらさらと何かの言葉を書き綴った。


　　　　　　　　　　　　　　　


　正月の３，４日を外すと、リゾート地は極端に静かになる。それを狙って、M

は毎年、妻とそこで休みを取り、年１回のお正月休みの１週間をいろいろな湖畔

のリゾートで過ごす。それは二人の決まり事に、いや、おそらく二人の人生にお

ける最大の楽しみになっていた。しかし、年々、Mは湖畔のリゾートホテルの選

択に困るようになっていた。


　　　　　　　　　　　　　　　


　そして今年は大奮発して美しい湖を見晴らせる贅沢なこのリゾートホテルを選

んだ。その部屋はプライベートプール付きのヴィラタイプのスイートで、広いバ

ルコニーにはペーパーウイッカーの椅子とテーブルのほかに、デッキチェア2人分

と、さらにプールサイドにはパラソル付きのデッキチェアが2台あり、ここに２家

族くらいでやって来て、パーティを催すことを前提として作られているように思

えた。


　　　　　　　　　　　　　　　


　しかし、Mも妻のクリスティーヌも水着を持って旅に出ることはなかった。二

人はプールとは眺めるためのもので、泳ぐためにあるとは思っていなかった。M

はプールサイドで開かれるだろうカクテルドレスの女性たちとタキシードの紳士

が手にグラスを持って談笑するシーンを思い浮かべながら、趣味の脚本を書くた

めに、毎年リゾートにやって来る。そしてその時だけ、にわか脚本家になる。


　　　　　　　　　　　　　　　


　反して妻のクリスティーヌはどんなに寒かろうが、バルコニーでお茶とお菓子

で午後を過ごすことを目的にやって来ていた。ほぼ、どんなリゾートホテルであ

っても、最近は間違いなくおいしいお茶とお菓子のアフタヌンティが希望した場

所に用意される。彼女はその時間と空間を得るためなら、人生の喜怒哀楽を全部

我慢することだってできた。しかし夫のMはカフェインが体質に合わず、コーヒ

ーも紅茶も飲めないため、妻のお茶に付き合うことができなかった。しかし、幸

いにも、妻のクリスティーヌはその必要性を感じてはいなかった。さらにMはア

ルコールも飲めないため、パーティを自ら催すことも、呼ばれることもなかった。


　　　　　　　　　　　　　　　


　「イマジネーションあふれるすばらしい景色だね～」Mは部屋の隅に移動した

小さな猫足のデスクの前のプライベートプールとその背後を彩る湖と遠近の山々

にやさしげな視線を送った。「ねえ、そう思うだろう？」Mはまた首をぐるりと

９０度回して、クリスティーヌの方を見た。クリスティーヌは、「うん、うん」

とうなずいた。


　　　　　　　　　　　　　　　


　「ああ、それでその、映画だけどね、『舞踏会の手帖』っていう題名なんだ。

それが最高に素晴らしい名作だと僕は思ってるんだけどね。若くして未亡人にな

った美しい主人公が、１０代後半の若かりし頃、舞踏会で踊った相手をひとりひ

とり尋ね歩く話なんだよ。その昔の舞踏会の手帳を持ってね。しかし、中には不

幸な人生に陥っている男や、すでに亡くなった男もいて、２０年という人生の悲

喜こもごもが、それぞれのドラマで描かれる実に美しい映画なんだよ」そう言い

終えると、Mは何かのインスピレーションを受けたらしく紙にペンを走らせた。


　　　　　　　　　　　　　　　


　しばらくした後、またMはプールに向かってしゃべり始めた。「そして、いよ

いよ、手帖の最後の相手が対岸の屋敷に住んでいることがわかって、そのかつて

の恋人を、思い切って訪ねてゆくんだよ。そしたら、その男性は少し前に亡くな

っていて、その恋人の面影を映したような美青年が彼の忘れ形見として残されて

いたっていうシナリオなんだよ」Mは深々とため息をつくと、またバルコニーに

いるクリスティーヌの方に首を９０度傾け、軽く手を挙げた。クリスティーヌは

穏やかに首を上下した。


　　　　　　　　　　　　　　　


　それからMはまたプールサイドの方に向き直り、ペンを持ったが、憂いを帯び

た表情でまた口を開いた。「もう人手に渡ることになるかつての恋人の邸宅がま

た美しいくてね～、その部屋で彼女はその美青年を舞踏会に送り出すんだよ。そ

のラストシーンがなんとも胸を締め付けられてね。あのセリフは名文句だよ。

『初めての舞踏会の味は、初めて吸う煙草のようなものよ』と言って背中を押す

のさ。その舞台がまさにイタリアのコモ湖畔にあるホテル『ヴィラ・デステ』なの

さ。元はそんな貴族の館さ」Mは首を９０度、妻のクリスティーヌの方に向けた。

クリスティーヌはお茶のカップを両手に持ってうっとりした表情を浮かべていた。


　　　　　　　　　　　　　　　


　そしてMはバイオリンの練習さえできそうな頑丈なガラス窓ごしに、感極まっ

た表情を浮かべ、さらに妻に向かって言った。


　　　　　　　　　　　　　　　


　「残念なことに、そのホテルは１１月から３月までは湖が凍り付くから営業し

ていないんだ。つまり、僕らが行けるお正月休みは常にクローズしているってこ

とさ。だから永遠に行けないんだよ」クリスティーヌはお菓子をほおばったとこ

ろだった。「だから毎年、そのヴィラ・デステの代役のホテルに泊まるしかない

のさ」Mはガラス越しに午後のお茶を堪能している妻のクリスティーヌにため息

交じりに言った。


　　　　　　　　　　　　　　　


　「その映画の未亡人の名がクリスティーヌなのさ」妻のクリスティーヌは悲し

気に首を軽く左右に振ったように見えた。Mはさらに悲し気な顔で続けた。「ヴ

ィラ・デステは僕のリゾート手帖に永遠に残り続ける最後のリゾートなのさ」


　　　　　　　　　　　　　　　


　幸いなことに、ガラス越しのMの話はクリスティーヌにはまるで聞こえてはい

なかった。その前に彼女は夫の話より、アフタヌンティに夢中だったけれど。


　　　　 　


　上のイラストから、「リサコラムの部屋」に入れます。


p.s.1
　自慢のお部屋ができたらそれを今度はみんなに見せて評価してもらえる
場所を作る。本末転倒でも、そちらの方がきっと幸せでしょう。



　「もの、こと、ほん」は下の写真から。

　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　　

p.s.2
　　　　E-Book「Bedroom, My Resort　 リゾコのベッドルームガイド」
　　　どこでもドアをクリックして中身をちょっとご見学くださいますように。

　　　　　　　　　　　　　　　　　



　　バックナンバーの継続表示は終了いたしております。

　　書籍化の予定のため、連載以外のページは見られなくなりました。

　　どうかご了承くださいますように。