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リサコラム
連載180回
本日のオードブル
華麗なるペテン師の流儀

第6回

俊春-記憶の壷

木村里紗子のプロフィール

マダム・ワトソンに1990年より勤務し、400名以上の顧客を持つカリスマ販売員。
大小あわせて、延べ1,000件以上のインテリア販売実績を持つ。
著書”シンプル&ラグジュアリーに暮らす”(ダイヤモンド社)(06年6月)がある。
道楽は、ベッドメイキング、掃除、いろいろなインテリアを考えだすこと。
新リゾートホテルにいち早く泊まること。
18年来のベジタリアン。ただしチーズとシャンパンは大好き。甘いものは苦手。
アマン系リゾートが好き。ただしお酒は強くない。
好きな作家は夏目漱石、遠藤周作、中谷彰宏、F・サガン、マルセル・プルースト
      

  
「やっぱり、ここにいたのね。

          「君たちもおいでよ。極楽だぜ!」

  
 
      
  





俊春-記憶の壷




黒いエナメルのような闇の中に、石の門が現れました。威圧するよ

うな大理石の門柱を見上げて、俊春は気後れを感じました。なに、今

さら遠慮したところで、我が身は海を背に切り立った崖に立っている

も同然、他にどんな選択肢があるというのでしょう。



         



「お邪魔してもいいんでしょうか、わたしなんか、
それでも俊春は

最後の遠慮のかけらを見せて細い声をかけました。「もちろんですと

も」咲子はそう言うとさっさと門に入り、重そうなドアに手を掛けま

した。山の別荘を包むエナメルの闇は、その上に細かく砕いたガラス

を散りばめていました。それが星だと気づくまでちょっと時間がかか

りました。「星、星がきれいなんですね。久しぶりにこんなきれいな

星空を見ました」咲子は重いドアを片手で押したままで、「そう、都

会では信じられないでしょ。ひとつつかんで帰りたいなと毎日思うほ

どよ




         



重いドアを片手で半分押したまま、咲子は黒いエナメルに向かって腕

を伸ばし、星を掴むようなしぐさをすると、「さあ、中であったまり

ましょう!」先ほどからお地蔵さんのように動かない俊春の方に半身

を向けました。

 咲子の後について中に入るなり、じゅうたんの柔らかな感触が脚を

伝わって俊春の体に抜け、何かの壺のような中に誤って足を踏み込ん

でしまったような衝撃を感じました。さらに奥へ進むと、ホテルのロ

ビーのような空間に、シャンデリアは天使の羽根のようなやわらかな

影を落としておりました。テーブルと壁際に並んだガラスの器からは

光とそこら中に漂っている香気を一緒に連れておりました。俊春は生

クリームたっぷりの甘いキャラメルを2、3個もいっぺんに口に放り

投げた時のような、鼻に突き抜けるつんと甘い匂いにめまいを感じま

した。俊春はずっと昔、どこかで嗅いだような記憶が蘇(よみがえ)

ってきたのです。人の匂いの記憶とはまことに不思議なものです。舌

よりさらに鋭敏な動物的な感覚でもって、記憶という奈落の底から、

手探りで拾いだそうとするのですから。



        



「もしや夢では?それなら、もう少しだけ夢を見させてくれ、まさか

これは何かの罠(わな)かも知れない、しかしこんな自分を罠にかけ

る価値などあるだろうか、いやぁ、あろうはずもない」俊春は行方の

知れない船に乗せられ夢と現(うつつ)を行きつ、戻りつするように

心地良い覚醒に身をゆだねたまま、今日の午後、偶然田舎道で遭遇し

た老人のことを思い返しておりました。それは遠い昔の記憶を手繰り

寄せるかのようでした。老人に言われた通り、自分の影を夕日に映し

たあと、ケイタイを草むらから拾い出したこと、そこへ持ち主の女性

が運転手つきの車で現れ、お礼にこの山の別荘に招待すると言い、1

時間の快適な車中から遊歩道を駆け下り、トンネルを抜けて、ここま

でやって来た道順をひとつずつたどりました。それは甘美な夢のよう

なときでした。山の中で死のうかと思っていた人間にとって、どれほ

どの幸せな出来事だったことでしょう。俊春はもし数万円のコース料

理を昨日食べたとしても、きっとこれほど鮮明には思い浮かべること

はできないだろうと思いました。それからこうして追憶の階段をどん

どん下り降りながら、俊春の意識はそれにつれ、ゆるゆると霞んでゆ

くようでした。それは昔、何かの故事で聞いたような、しかし俊春は

思い出せませんでした。



         



 漂う甘い香りの中に立ちすくんで、ここまでの思いをめぐらせるの

に、数秒とかったでしょうか。ゼリーの池に落としてしまった時計の

秒針がひとつ動いたくらいの時間でした。それはフィギアスケートの

選手にとって1秒におつりがくるくらいの時間でした。彼らが0.7

5秒で4回転を跳んでいるとき、まるで雲の上にいるようだという感

覚は、なるほどこれなのかと俊春は合点がゆきました。




       



 「お帰りなさい、咲子さん」雲の上の数秒は、見知らぬ男の声で打

ち切られました。「こちらは、俊春さん。私のケイタイを草むらから

探し出してくださった、命の恩人よ」「ほお、それはありがたいこで

とですね。ケイタイは今や命の次にランクインしておりますからね」

「ほんと、そんなものよね~」咲子は息を深く吸い込むとすう~と吐

き出しました。黒いスーツを着たシルバーグレーの男性は「わたくし

からもお礼申し上げます。どうか今夜はごゆっくりなさってください

ますように」と手に持った盆をちょっと上に持ち上げるようなしぐさ

で、サイドテーブルの片隅に置くと、俊春に誠実そうな笑みを寄こし

ました。





         




「それでは
少し照明を落としますので、イブニングティタイムと

いたしましょうか」「それ、ロマンチックでいいわ!」「ああ、いえ

ほんとうに、こちらこそなんとお礼を言ったいいのか、すみません」

「そんなにかしこまらなくても。さあ、ちょっとお茶でもいただきま

しょう」執事らしき男性はよどみない手の動きで、俊春にお菓子の皿

と紅茶碗を置くと、次は咲子の前に置き、1歩退き、きちんと背筋を

伸ばしました。「俊春さま、お部屋のご準備はできております。お茶

の後でわたくしがご案内いたしましょう」こころよい微笑はなんと人

に安心感と幸福感を与えてくれるものでしょう。俊春は礼儀正しく話

す言葉を失い、口からはああっという驚嘆の音が出てくるのみ。はっ

として、あわてて腰を曲げる自分に気づいておりました。「ウエルカ

ムシャンペンならぬ、ウエルカムティよ。ホールでまずお茶をお出し

するのが、ちょっと変わってるけど、うちの習慣だから。さあどうぞ

お気遣いなく」あかりを落としたホールにはゆらゆらと3人の影が揺

れ動き、やっと顔を上げた俊春に向かって「今朝ね、近くの別荘の


YOKO
さんがお菓子を焼いて持ってきてくれたのよ。ガトー・オ・シ

ョコラ、チョコレートがたっぷりの彼女のスペシャリテなのよ」




      




なめらかな咲子の声でまず俊春の耳が芳醇な味わいを堪能しました。

「はあ、」俊春はテーブルのケーキの上に視線を落とし、と同時に、

不覚にも涙がほろりとこぼれ落ちそうになりました。こんな親切な扱

いを受けたのはいつ以来だろうかと思うと、手作りのお菓子の甘い香

りで胸は満杯になりました。その気配を察してでしょうか、「さあ、

いただきましょう。それはそれは絶品なんだから!」と咲子自身はパ

クリとお菓子の1片を口に運ぶと「とろけるようよ!」と、俊春を促

しました。




         




 俊春の記憶はまたするすると縄を伝って、壷の底へと降りて行きま

した。甘美な味わいはやわらかな触感を通じてクリーム状に混濁した

記憶を呼び覚ましながら、口の中から食道の壁をゆっくり通り、胃の

中に落ちてゆきました。と同時に、「壷の中、そう、壺中の天」頭に

浮かんだ言葉は涙のしずくと一緒にみぞおちあたりまで落ちてゆきま

した。




              






 「華麗なるペテン師の流儀」シリーズ、「俊春」は来週以降もしばらく続きます。

さあ、フィクションの限りない想像の旅へご一緒に参りましょう!

では、また来週金曜日まで、ご機嫌よろしゅう。




                                      木村里紗子










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