俊春ー流儀は身を助く
ある春の昼下がりでした。ひとりの若い女が山の中の切り株に腰
かけてスケッチブックを広げておりました。女の名前を咲子といい、
以前は普通のOLでしたが、今は新しくオープンする別荘ホテルの総
支配人となり忙しい日々を満喫しておりました。しかしそんな緊張感
や憂いを微塵も感じさせないすがすがしい表情でした。それは準備の
整ったホテルの部屋に客がまた帰って来たときに見せる安堵の表情の
ようでした。
「もう、帰りましょう」咲子は小さなスケッチブックを手にさっさ
と車に乗り込むと、自分でリムジンのドアを閉めました。車はゆっく
りと山道を登りはじめました。「ところで咲子さん、準備は完了です
か?スタッフの人選もOKですか?」「ううん、実はね、ゴローさん
がなかなか首をタテに振らなくて、バトラー候補がまだひとりも決ま
っていないのよ」「そうですか、ゴローさんのめがねにかなう人材は
そうそういないかも知れませんね」「そうね。ゴローさんはほんと、
たたき上げの執事だから、人を選ぶ目も厳しいわ。執事はとてもすば
らしい素敵な仕事だけど、休みもご主人さまの都合で急遽変更させら
れる場合もあるから、身も心もなり切れる人でないとなかなか難しい
のよね。何人面接してもダメなのよ。まっ、そのうちいい人が見つか
るでしょ。偶然は必然だから、きっとひょっこり現れるものよ」「咲
子さんは偶然主義者ですからね」
咲子はかさかさとスケッチブックと色鉛筆をバッグにしまいこむと
「さぁて、ジローさん、今日のイントロの親はあなたよ」運転手のジ
ローの肩越しに透き通った声が聞こえました。「イントロクイズもも
う、100回でしょ、そろそろネタ切れですよ」「そうよね。ここへ
来て3ヶ月ねぇ。それで今日は?」咲子はゆっくりシートに身を沈め
ると、元役者でシナリオライター志望の運転席のジローの言葉を待ち
ました。咲子が考え出したイントロクイズとは、一人が親になり小説
の冒頭を暗唱し、片方がそのタイトルを当てるという粋人の遊戯でご
ざいますようです。おかげで山道でのドライブはいつも愉快に過ぎて
いました。「では、」ジローは片手を伸ばしてCDのスイッチを押し
ました。流れ出したのは、絹糸を紡ぐようなメロディ、バイオリンで
した。朝露を浴びたような湿り気が車内に立ち込めました。「きれい
ね~、これ、誰?」「ははは、いいでしょう?エミリー、宮本笑里。
『smile』というアルバムです」「うぅん~、憂鬱なメロディ、
優美でセンチメンタルだわ~」「でしょう。聞きながら想像してくだ
さいね。では始めますよ。-ある春の日暮れです。唐の都洛陽(らく
よう)の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる若者がありました」
ジローはそこでぷっつりやめました。余韻とは、後味の悪さを伴うこ
ともあるようです。「えっ、もうおしまい?」「そうです」「今日は
手厳しいわね。ふうん、なるほど。この書き出しは、間違いなく芥川
龍之介ね。“唐の洛陽”、王朝物だから、ええと、羅生門じゃあ、な
くて…ああ、思い出したわ!主人公の若者は元々裕福だったけど、今
は財産を使い果たして赤貧っていう設定でしょ。そう、このまま死ん
でしまおうかと思っていたところに、仙人が現れて夜中にここを掘れ
って、言うのよね。そしたら大金がざくざく…」「そうです。ご明察
!」「それから若者は毎日、酒池肉林よね。そのうちお金が尽きて、
またひとりぼっちでぼんやり洛陽の町に立っているのよね。するとま
た同じ仙人がやってきて、ここ掘れって、大金持ちにするのよね。ス
ト―リーは思い出せるんだけど、題名は、う~ん」咲子はじっと目を
つぶり、頭の中の書棚から芥川龍之介全集を引き出しました。「咲子
さん、タイムトライアル、制限時間5分。降参ですか?」「ちょっと
待って..」咲子はう~んと唸ると、ジローはルームミラーを覗き込ま
した。
「白状しますとね、先ほど出勤する時にそんなうらぶれた雰囲気の
若者を乗せたんです。それで今日の小説を思い出したんです」運転手
のジローは普段は呼ばれた時にだけ出動する高級車のハイヤー運転手
でございます。「でも、旅行者にも見えず、ひと気の少ない山道にた
たずんでいるもので、不思議に思って窓から『どうしました?』って
聞いてみたんですが、びっくりしたようでなんとも答えないものです
から、『お金はいいから乗りませんか?』と言ってみたんです。彼は
遠慮しましたが、行き先も特にないようなので、私もこの先に行くと
ころだからと同乗させました。すると、ちょっと座るのを躊躇して白
い大判のハンカチのようなものを出すと、私の車の白いシートの上に
広げてリュックを置こうとするんです。そんな遠慮はいりませんよと
言うと、恥ずかしそうに、ホテルで失敬した綿のナプキンですから大
丈夫ですと答えました。こんな若者がそんな紳士風の流儀を知ってい
るなんて初めてでしたので、道すがら、その若者のことを根ほり葉ほ
り聞いてみたんです。仕事で2度失敗したことや、以前は贅沢なリゾ
ートホテルで遊んだことを話しましたよ。しばらく行くと『このあた
りで下ろしてください。後はのんびり散策したいから』と言いますの
で、私は先ほど通過した場所で下ろしたんです。すると、お礼にとこ
んな草花を私に手渡したんです」運転席のジローは左手を伸ばすと咲
子の方にその草花の束を手渡しました。
咲子はジローの話に聞き入っていました。「その人、もしかしたら
まだそのあたりにいるんじゃないの?ねえ、ジローさん、可愛そうじ
ゃない?助けてあげないと死ぬ気かもよ?それに、そんなホスピタリ
ティのある若い人めったにいなんじゃないの?バトラーにぴったりだ
し。ゴローさんに会わせたら?」「そうかもしれないと私も思って、
咲子さんに相談しようと思っていたんです。二人の乗った車は急にU
ターンして山道を今度は下り降りました。しばらく行くと、黄色い帽
子をかぶったそれらしい男がとぼとぼ歩いているではありませんか。
車はその若者の30mほど後ろで停まりました。ジローは、「咲子さ
ん、ケイタイをちょっと交換できますか?それから、15分後に咲子
さんのケイタイを呼び出してください。ちょっといいことを思いつい
たんです」それだけ言うと、車を降りるなりトランクを開けてごそご
そと音をたて、あっという間に林の中に消えてしまいました。咲子は
微笑んでおりました。
「さて、ペテン師のお手並拝見ね」つぶやくと、15分後に自分の
ケイタイを呼び出し続けました。呼び出し音を聞きながら、咲子はや
っとジローの出したイントロクイズの答えを思い出しました。「そう
よ『とししゅん』よ!芥川龍之介の『杜子春』ね。ああ、きっとジロ
ーさん、新しいシナリオを書く気でしょう。きっと『華麗なるペテン
師はつねに優雅に人を騙す』なんて副題を付けるに決まっているわ。
『俊春(とししゅん)』なんて題名、つけてね」

おわり
p.s.1 志賀直哉は、芥川龍之介の作風を「最後に背負い投げを食ら
わすやり方」と言ったそうです。短編小説の常道ですが、投げられ
るほうも心地良い一本ですね。
p.s. 2 恐れ多くもそんな名作をパロディにしてしまいました。
拙い文章に10回もお付き合いくださいまして感謝いたします。
第1回からまた読み直していただければうれしい限りでございます。
バックナンバーからぜひどうぞ。
p.s.3 宮本笑里さんの『smile』美しい人、美しい音楽です。
『俊春』は第1回からこの曲をずっと聞きながら、自宅で朝な夕なに
書きました。そんな気分が合うような気がしまして。
次週は未だ未定です。
偶然の神さまが降りて来てくれることを願って。
では、また来週金曜日まで、ご機嫌よろしゅう。
木村里紗子
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