先手必勝プロヴァンス風
数十枚、いや、数百枚はあるだろうか。バスローブに軽いローブ。
ポロシャツなどの類いはきれいにグラデーションに並べられ、色鉛筆
のふたを開けた時のようだ。ホワイト、アイボリー、ベージュ、ブラ
ウン、コットンのパンツはプレスされ均等にハンガーにつるされてい
る。さらに廊下を見通す引き出しには、たっぷりのテーラーカラーの
パジャマがきちんとたたまれ、その顔を覗かせるように、引き出しが
少しずつ順々に引かれている。パジャマの下には、これまた、たくさ
んの下着に靴下が、やはり色鉛筆式に整然と端正な顔立ちを並べてい
る。廊下側に面した出窓風の明るいスペースでコーディネートを楽し
むのだろうか。まるで、自分の部屋に専用の紳士服店が引っ越してき
たようではないか。もちろんこんなホテルは初めてお目にかかった。
「いかがでしょうか?お気に召されましたでしょうか?」少しひん
やりした澄んだ空気の中に漂ってくる、清潔な繊維質の匂い。用意周
到に掘られた落とし穴のなかで、私は無意識にジャケットを脱いでい
ることに気付いた。「はあぁ、つまり、ここから自由に好きな服を選
んでいいと?」「はい。もちろんでございます」「それは、すごい!
何ヵ月でも過ごせるくらいだね。ボストンバッグのいらない長期滞在
型の別荘ホテルとは、ふ~驚いた!」「マーローさまのサイズの他に
あと各3サイズ、メンズ、レディスのドレッシングルームがございま
す。みなさま共用でご使用いただいております。使い切りのアンダー
ウエアなどから、パジャマ、お部屋着、簡単な外出着まで無料レンタ
ルできますので、ここでは、ほとんど何もご持参なさる必要はござい
ません。着なくなった状態のよい服や買ってきた服をレジデントの方
々が持ち寄り出来上がったクローゼットでございます。このシステム
は、実は大変好評をいただております」「そりゃ、そうでしょう。リ
サイクルも兼ねているわけですか!なるほどね」私は今夜、マルセル
が部屋から降りてくる時間迄には、抜け出さなくてはならないことを
残念にさえ思い始めている自分に気づいていた。
「では、マーローさま、ダイニングにご案内いたしましょう」執事
はドレッシングルームから廊下に出ると渡り廊下に案内した。美しい
灌木の庭を左右に見ながら半屋外の廊下を歩くと、やわらかな石の感
触は足の裏に吸いつくようだ。ちょうどメインビルディングを囲むよ
うに、渡り廊下はめぐらせられているようである。角を曲がる時、オ
リーブグリーンのスタンドカラーを着た長身の若いスタッフが道をよ
けて静かにお辞儀をした。「マーローさま、ようこそ、わたくし共の
別荘へ」にこやかな笑顔をみせると若いスタッフは私たちが通り過ぎ
るまで見送った。どうして私の名前を知っているのか?まだ、他のだ
れにも会ってはいないはずだが。私の疑念を表情から読み取ったのか
「わたくし共スタッフは初めてのゲスト方はすぐにわかりますし、通
りすがりにこのマーローさまのお名前の入ったバインダーを彼に向け
て数秒示しましたので、そのお名前の文字を読んだまででしょう。い
え、種明かしをすれば簡単なことでございますね」「なるほど、サー
ビスの秘密兵器は先手必勝のウイットか、あるいは、のぞき見か、そ
んなところだね」執事はすこしあたまをかしげるように笑顔をつくっ
て軽く会釈をすると無言で私の左を歩いた。「こちらでございます」
私は広さ30畳ほどの懐かしい雰囲気のダイニングスペースに案内さ
れた。まばゆいばかりに自然光が渦をまいている!「他に屋外にテー
ブルがございますが、こちらで朝食からナイトキャップまでお出しい
たします」四角いテーブルには黄色と白のクロスが2重にかけられ、
それが大小3台並んでいる。蜂蜜色をした壁。それと同じくらい黄色
い花模様のカーテン。今はランチの前のティタイムの時間だろうか?
う~ん、淹れたてのコーヒーの香ばしい香りが甘い焼き菓子の香りと
メランジュしているようだ。質素でうまい料理がきっと並ぶはずだ。
想像だけで十分に私の唾液を刺激した。窓からは広い庭を望み、ダイ
ニングのイスはその美しい庭を見渡せるようにと窓を向いて2脚並べ
られている。庭の緑と室内に溢れる黄色。二つは見事な調和を果たし
ているようだ。この牧歌的な環境で見ず知らずの他人同士がテーブル
を囲もうというのか。私はこの風景はどこかで見た魅惑的な風景に似
ているような気がした。建物が迷路のようにつながり、ミモザよりさ
らに黄色く塗られたサロンの壁。壁の色に合わせた黄色いカーテンと
揃いのソファが並ぶ風景。そこにはこじんまりしたプールもあり小高
い岩山の上から眼下の美しい緑の景色を背景にしていた。私の目の前
に出現したダイニングの風景は記憶の書棚から追憶のカードを次々と
出して来た。
暖炉の周りの肘掛椅子の数脚は、ゲストの好きな方向を向いて置か
れ、飾り棚には、金文字を浮かした数冊と美しい装丁の背表紙の本が
“間(ま)”というインテリアの技法を使いながら並んでいる。無為な
時間を過ごしてしまいそうな昼前のおっとりとした時間。ひばりでさ
え鳴くのをやめてしまうかのようなけだるさだ。私のななめ上からは
カスタードクリームのような薄黄色い光が差し込み、庭から吹いて来
る風はカーテンを女性のワンピースの裾にしておだやかなリズムを刻
んでいる。そうだ、これは、プロヴァンス地方のホテルの風景だ!確
か村の名前と同じ名前のホテルだったが…ああ、うまいパンケーキ
の焼ける匂いがする。ホテルの朝のダイニングにはフライパンを2つ
手に持っている白い山高帽の料理人がいることがある。そこでは私は
必ずパンケーキを焼いてもらう。「テーブルはどちらで?」料理人が
聞くと、「いや、自分で運ぶよ」と私は料理人のフライパンをじっと
ながめるのだ。ボールに粉とたまごを牛乳でといて熱いフライパンに
じゅっと丸く流し込む。愉快な瞬間だ。そのうち白い塊はふくらみな
がらぶつぶつ言い始める。その時を狙って、フライ返しをそっとフラ
イパンの底に当てて一気にひっくり返す。約20秒待って、裏面にも
うっすらと焦げ目がつくところで皿に移し、2枚目、3枚目を焼きに
かかる。3枚目が焼き終わると、皿に重なったほかほかのパンケーキ
の山を自分のテーブルまで運ぶ。そんなささやかな、しかし大いなる
幸せの朝食のシーン。
ホテルの朝のダイニングは、昨夜、部屋やサービスに不満をかかえ
たゲストに一発逆転の最後の切り札を切る。「お茶とパンケーキでも
いかがでしょうか?」執事はそんな私の表情を察してか、さらに用意
周到な先手必勝の技を披露した。

p.s.シャンデリアにも生花でプロヴァンス風の装飾をしてみました。
オアシスを付ければ長持ちします。
マダム・ワトソンのベッドルームの1シーンです。マーロー氏が思い出した、
リゾートホテルを想像していただけますか?
2010年4月16日より、『華麗なるスパイの失策』が始まりました。
さて、次はどんな展開が待っているのでしょうか、実は私にもわかりません。
次週は5月28日金曜日です。それまで、どうかご機嫌よろしゅう。
木村里紗子
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