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リサコラム
連載193回
本日のオードブル
華麗なるスパイの失策

第7回

メイプルシロップは
おだやかに効く

木村里紗子のプロフィール

マダム・ワトソンで400名以上の顧客を持つ販売員。
大小あわせて、延べ1,000件以上のインテリア販売実績を持つ。
著書”シンプル&ラグジュアリーに暮らす”(ダイヤモンド社)(06年6月)がある。
道楽は、ベッドメイキング、掃除、いろいろなインテリアを考えだすこと。
新リゾートホテルにいち早く泊まること。
18年来のベジタリアン。ただしチーズとシャンパンは大好き。甘いものは苦手。
アマン系リゾートが好き。ただしお酒は強くない。
好きな作家は夏目漱石、遠藤周作、中谷彰宏、F・サガン、マルセル・プルースト
      


   
「 きみ、あのアーチをくぐったことがあるかい?」


  「いえ、マーローさま。アーチなど、私には見えませんが」
 
      
  





メープルシロップはおだやかに効く




 もしかして、執事は読心術者だとか?そんな、まさか「パンケー

キにコーヒーですか。そりゃいい!」しかも、私が無類のパンケーキ

好きとはどうして分かったのだろうか。ここではどうも調子が違う。

しかしどんな状況であれ、ハードボイルを自称するなら感情を表に出

さないのが鉄則である。私はそっと、音の出ない方法で唾液をごくり

と飲み込んだ。「お早いご到着でございましたから、きっとご朝食は

まだかと思いまして。今のお時間は、パンケーキやクレープなどはご

用意ができますので。こちらには最高のメープルシロップがございま

して、きっとお気に召すはずですよ」「そうですか。それじゃぶ厚い

方、パンケーキを頂こう。しかし、さすがだね。観察による推理、こ

れなんか探偵がやるものだと思ってたんだが、実は執事にも必要な素

質のようだね」「恐縮でございます」執事はキッチンにいるボーイに

軽い目配せをすると、手短に指示を出し、私をテーブルに案内した。

「マーローさま、それでは、お食事がお済みになられましたら、スタ

ッフにお声をおかけくださいますか?また私が館内のご案内に参りま

す」そういうと執事は、渡り廊下のほうに姿を消した。


 手もち無沙汰にダイニングを見渡すと、蜂蜜色の壁と花模様のカー

テンから、プロヴァンス地方のホテルらしい特有の匂いが溢れ出てい

る。数年前に滞在したあのホテルはなんと言ったか、私は懐かしさと

安堵感のようなもので、すっかり、くつろぎムードになっていた。や

っと記憶の書棚から1枚のカードを引き当てた。“クリオン・ル・ブ

ラーヴ”、そう、村の名前と同じ、“クリオン・ル・ブラーヴ”だ。

プロヴァンス地方のそのホテルは当時、滴るくらい蜂蜜をたっぷり吸

いこんだパンケーキのような色に染まっていた。初夏の昼前、明るく

けだるい光の中で見晴らしのいいテラスに出ると、きっと誰かはこれ

を“至福”などと名付けるのかも知れない。至福とは、平凡な幸せを

顧みない私のような人種には縁のない、いや実は厄介なものなのさ。

しかし、認めたくはなかったが、このリゾート風の別荘ホテルに居心

地のよさを感じていたのもほんとうだった。きっと私の任務はさした

る障害もなく首尾よく果たせるに違いないが、ついでにこの心地よい

雰囲気を依頼人に伝えるべきものだろうか?まさか!そんなばかな!


 「バターをお乗せ致しましょうか?」若いボーイが、私の前に湯気

の立つ3段のパンケーキの山をそっと差し出していた。「いや、その

ままで結構」私はまず、フォークでほかほかかの麦色に膨らんだパン

ケーキの1枚目をめくると、
1枚目と2枚目の間にバターをそろそろ

と均一に塗った。次に、2枚目と3枚目の間をフォークの背で広げな

がら、ナイフでそっとバターを塗り込める。それから、シロップの入

ったピッチャーを取り上げると、パンケーキの山の一番上から流しか

ける。そうだ、ゆっくりと、たっぷりと。滴るようにだ。これだけの

儀式を行った後で、お次はいよいよケーキカットだ。さらに一口大に

切るとフォークをゆっくりと3枚目まで突き刺して口に放り込んだ。

バニラの香りが口のなかから私の体めがけて突進する。卵と小麦と牛

乳で作られる永遠不滅の三角関係にさらに“2枚目の男”が加わる。

その“2枚目の男”の名をバターという。そこにさらに極上の甘い誘

惑者のメープルシロップが分け入った。甘さというものは時には強力

な武力を持つことがある。私はその中にさらにひとりの苦みばしった

男を送った。奴は常にスマートな威厳を持ち、少々のことで動揺する

こともなく、感情は常に抑えられている。まさに私のような人間に違

いないじゃないか!私はそいつをぐっと口の中に含んだ。液体はたち

まちに甘い誘惑を抑圧した。絶妙なローストのブラックコーヒーだ。

きっとトアルコ・トラジャだろう。どろりとした触感。濃厚なコクと

ふくよかな香り。メープルシロップには絶妙なパートナーだ。


 私はゆっくりとパンケーキの山を平らげると、お代わりを聞きに来

たボーイに、2杯目のブラックコーヒーを注文した。2杯目を待つ間

私はダイニングルーム越しに庭を眺めた。バラの庭にはローズ、ピン

ク、深紅と赤いバラのアーチが作られていた。美女のコンテストのよ

うだ。穏やかな空気に、うまい料理、一見平和に見える景色、しかし

“パラダイス”には必ずどこかに危険なトゲがあるものだ。私は蜂蜜

色のダイニングを見渡しながら、ある男の物語を思い浮かべていた。

やつはメープルシロップをたっぷりかけたクレープを堪能しながら、

自殺の仕方を考えていた。パンケーキやクレープにメープルシロップ

をかけながら食べるたび、私はこの短編小説の男のことを思い出す。

タイトルはついぞ思い出さないが、奇妙なストーリーの小説だった。

それは自殺を志願する人間を集めて、静かで平和な方法で、思いを遂

げさせるリゾートホテルの話だった。主人公の銀行員の男はある日、

株取引で償いきれないほどの大きな損失を勤務先の銀行に与えてしま

う。翌日、期待もむなしく、妻は行方知れずになった。なさそうで、

いやありえるストーリーさ。こうして妻にも逃げられ、払いきれない

借金を抱えて彼は行きつけのレストランで好物のメープルシロップを

たっぷりかけたクレープをうまそうに食べる。そう、自殺の方法を

考えながら。帰宅すると、支店長からの怒りに燃えた手紙と一緒に、

あるホテルから一通の“招待状”が届いていた。そうしてストーリー

は淡々と穏やかに始まっていた。洗練されたサービスが受けられる優

秀なレストランにテニスコート、プールもあるリゾートホテル...

何か似てやしないか?ドレスコードのあるレストランでは男性は正装

し、女性は肩の開いたドレスを着て優雅な晩餐をする。そしてゲスト

は定額を先に払い込みさえすれば、優雅なもてなしの後、睡眠中にご

く穏やかな死を迎えることができるとあった。そして“その後”の処

置から、葬儀、埋葬まで、すべてオールインクルーシブであった。そ

んなブラックユーモアをメープルシロップのせいでまた思い出してい

た。そして不思議なことに、自殺ホテルのゲストは洗練された階層の

紳士淑女ばかりだとさ!


 ボーイが、熱いコーヒーを持って私の横に立っていた。私は、ここ

のディナーにはドレスコードがあるのか聞いてみた。「はい、マーロ

ーさま。スマートカジュアルで結構なのですが、男性の方はスーツに

ネクタイを着用なさるようでございます。女性は皆さまデコルテのド

レスをお召しのようですね」「そうか、なるほどね、あのすばらしい

クローゼットがあれば簡単なことだからね。わかったよ」ボーイはに

っこりと笑って「お客さまは洗練された紳士淑女の方々ばかりですか

ら」と堂々と胸を張った。









 p.s.”Crilon le Brave” プロヴァンス地方のクリヨン・ル・ブラーヴ村にある

洗練されたリゾートホテルですね。マーローはどんな思いで行ったのでしょうか?


           







 次週は6月4日金曜日です。それまで、どうかご機嫌よろしゅう。







                                      木村里紗子










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