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リサコラム
連載697回
      本日のオードブル

ホテル・センチメンタル
part.2

第3話

「108号室の常連客」

木村里紗子のプロフィール

マダム・ワトソンで400名以上の顧客を持つ販売員。
大小あわせて、延べ1,000件以上のインテリア販売実績を持つ。
著書「シンプル&ラグジュアリーに暮らす」(ダイヤモンド社
紙の本&電子書籍)(2006年6月)
「Bedroom, My Resort  リゾコのベッドルームガイド」
(電子書籍2014年8月)
道楽は、ベッドメイキング、掃除、アイロンがけなどの家事。
いろいろなインテリアを考えだすこと。
新リゾートホテルにいち早く泊まる夢を見ること。
外国語を学ぶこと。そして下手な翻訳も。

20年来のベジタリアン。ただし、チーズとシャンパンは好き。甘いものは苦手。
アマン系リゾートが好き。ただしお酒はぜんぜん強くない。
好きな作家はロビン・シャーマ、夏目漱石、遠藤周作、中谷彰宏、F・サガン、
マルセル・プルースト、クリス・岡崎、千田琢哉、他たくさん。




奴が
やって来た。
108号室の男が
カシミヤのコートを
翻して。
かつて
砂漠の詩人は
こう言ったらしい。
「詩なんかより酒を」と。
奴なら、
コートの襟を開いたままで
こう言うだろう。
酒なんかより
チョコレート
をと。




 







        

 第3話 「108号室の常連客」






  石畳の中庭をこちらの玄関口に向かって歩く足音がする。


 「奴に決まっているさ、そうだ、奴に決まっている」私は自慢の耳をそば

だてて、屋根裏の自分のベッドから飛び降りて、窓のそばの椅子に飛び移

った。


            


 馬のひづめのように固くて、木管楽器のように響く懐かしい、あの靴音だ。

それが、ゆっくりと私のホテルの玄関に近づいて来ている。その一歩ごとに緊

張と喜びと期待に答えねばと胸を高鳴らせる舞台袖のバレリーナさながらに私

は大きく胸の毛を膨らませた。


 しかし私はそれよりずっと前、ホテルのゲストはもちろん、スタッフの誰も

気づかないあたりで、そう、彼が大通りでタクシーを降りて、ホテルのある西

門を入って来るあたりですでに彼の存在に気が付いていた。彼は、ゆっくりと

ドアを開けて中に入り、そしてパティオに一歩足を踏み入れた。その瞬間、こ

の小さな心臓がドキンと鳴った。


            


 毎年、バレンタインディを挟んだ一週間、彼は早朝に到着する飛行機で私の

このホテルにやって来る。きっと彼は道すがら、タクシーの車窓から、朝の焼

き立てバゲットを誰よりも早く手に入れるために、どんなに寒かろうと、店の

前に開店前から並んでいる人々の様子を横目で見ながらやって来るに違いない。

しかし、彼は焼き立てパンの香ばしい匂いにも、ジャム付きのクロワッサンと

カフェ・クレームの絶妙のコンビネーションにもまるで興味がないらしく、彼

が朝食のダイニングにやって来た姿を見たスタッフはひとりもいない。


            


 彼はいつも多くの宿泊客が眠っている間にやって来ては、睡眠不足のコンシ

エルジュとカウンターのスタッフの目を一気に覚まさせる。そして、ほとんど

会話らしきものをすることなく階段を上り、自分の部屋に入るなり、3日目の

夜まで出てこない。その間、ルームサービスでスタッフと短いやり取りをする

以外、外界との接触を断つ。つまり、丸3日半、彼は外出もせず、自分の部屋

にこもったままになるのだ。こんなに世話の焼けないゲストはめったにいない

から、早朝だろうと、コンシエルジュもカウンターのスタッフも意気揚々と彼

を迎えるのだ。


 さて、いよいよ、私の仕事も始まったようだ。私は次第に近づいてくる小気

味い木管楽器のような音色を聴きながら、じっと窓辺の椅子の上から彼の姿を

追った。


            


 「うん?」私はいつものリズミカルな音に微かに乱調があるのを感じた。そ

れは私の小さな腕に生じたごくわずかな不整脈のように。私はこの6年、彼の

足音を毎年聴いて来たのだから、間違いはない。彼はどこか体の調子が悪いの

かもしれない。いや、もしかしたら、精神面なのかもしれない。私は椅子の上

からじっと観察を続けた。


            


 彼のいでたちは変わらない。アンゴラうさぎの黒い中折れ帽。ミラノのボル

サリーノの店でオーダーメイドされているらしい。カシミヤのダークグレーの

チェスターコート、トレンチは彼の好みではないらしい。そしてイタリアンレ

ザーの柔らかな黒いドクターバッグを左手に持ち、右手ともコートのポケット

に突っ込んでいる。きっとポケットの中には、ぴったりフィットする手袋がは

められているはずだ。


            


 私は彼に関するチェックポイントの中のどれとも変化がないことを確認する

と一旦ほっと、胸をなでおろした。


            


 彼はこの同じいでたちのためイタリアの行きつけの店3軒で毎年同じものを

注文する。そして前の年に注文した服や帽子やコートはすべてある福祉団体に

寄付するらしいから驚きだ。そういう意味で言えば彼は私と同じで循環型社会

の一旦を担っていると言えるだろう。一度、彼とゆっくり話ができたらきっと

彼と私は意気投合して、この世界の数知れない問題点に対する解決策も見出す

ことができるだろうに。返す返すも、彼に猫語がわからないのが残念でなら

ない。


            


 しかし、残念がっている場合ではない。私は5階の屋根裏部屋から階段をフ

ロント迄全速力で駆け下りた。彼は今、玄関ドアの前に立ったようだ。ドアマ

ンのソフィアの大きな声が階段室まで響きわたったのだからすぐわかる。


           


 ソフィアは、今、帽子を脱いで挨拶をしたところだ。私は100m5秒の速

度で1階のコンシエルジュデスクに駆け寄ると、その脇の持ち場に控えた。間

もなく、彼がやって来て、チェックインデスクをスルーして、奥のソファに腰

かけ、チェックインを済ませるだろう。


           


 実を言うと、私は彼がなぜバレンタインディの時期にこのホテルに一週間滞

在するのか、うすうす感じてはいるのだ。平たく言えば、私と同じでこんな

ばかばかしい1週間が嫌なだけなのだ。いや、間違いなくそうだと、今回ば

かりは確信のない自信を深めた。


            


 彼はサインを終えると、私の方向かって来た。そしていつも通り、ボルサリ

ーノの帽子を脱ぐと、にっこり笑って、私の頭に手をそっと置き、「よっ!元

気か、ハンサム君!」と言った。もちろん私も、「よっ!元気だぜ」と猫語で

答えた。それから彼は自分で荷物を持って、108号に向かってひとり階段を

上って行った。


            


 私の新年は毎年この日に始まり、そして奴が「またな、ハンサム君よ!」

と言って帰るときにこの年の最大の楽しみも同時に終わるのだ




   


 上のイラストから、「リサコラムの部屋」に入れます。


p.s.1
    ムーミン村のスナフキンに憧れて既に数十年。
    次は男性に生まれたい思うのです。

    次回は2月12日(水)です。


p.s. 2  インスタグラム始めました。
    私の日常、今週はパリシリーズです。

  
 
 「もの、こと、ほん」は下の写真から、2020年1月号です。


           


p.s.3
    E-Book「Bedroom, My Resort  リゾコのベッドルームガイド」
    の英語版です。
    写真からアマゾンのサイトでご購入いただけます。


           


    タイトルは、"Bedroom, My Resort”
    Bedroom Designer’s Enchanting Resort Stories:
    Rezoko’s Guide for Fascinating Bedrooms


    趣味の英訳をしてたものを英語教師のTodd Sappington先生に
    チェックしていただき、Viv Studioの田村敦子さんに
    E-bookにしていただいたものです。
 
p.s.3
    下は日本語版です。
    E-Book「Bedroom, My Resort  リゾコのベッドルームガイド」
   どこでもドアをクリックして中身をちょっとご見学くださいますように。


                 



  バックナンバーの継続表示は終了いたしております。

  書籍化の予定のため、連載以外のページは見られなくなりました。

  どうかご了承くださいますように。







シンプル&ラグジュアリーに暮らす』
-ベッドルームから発想するスタイリッシュな部屋作り-
 
(木村里紗子著/ダイヤモンド社 )                      Amazon、書店で販売しています。 なお、電子書籍もございます。

マダムワトソンでは 
                                    
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