今の世の中、悪事を秘密裏に行う事はほぼ不可能と思ってよい。

いや、それが悪事ではなく、正しいことであろうと、あるいは楽しみ

であろうとそれを密かに行おうとすると、比例する逆の力が予告なく

のしかかってくる。それは物事が予定通り、スムーズに滞りなく遂

行されることがほぼ、皆無なことに似ている。


　　　　　　　　　　　　


　万一、スケジュール通りに何とか事が運んだとしても、人間がか

かわる以上、その間、何かのミスは起きる。さらに、昔の偉人が言

ったのか、庶民が伝承したのかはわかないが、人の口に戸は立てら

れないから、いかに正しく善意での行いであっても、それが秘密に

行われることにより、悪のベールがかけられ、結果的にそれはスキ

ャンダルになる。だから、「決して人にその秘密を打ち明けてはな

らない。どんなに気心が知れた人間であってもだ」。もしも私の

無二の親友ならそんな風に忠告するだろう。


　　　　　　　　　　　　


　その私の無二の親友は、私に似て用心深く、私に似ず慈悲深く、

奇をてらったサプライズを好まない人間だから、時間と場所を厳密

に計算した上で、その秘密の企てを諦めさせる方法をこんな風にお

膳立てしたのかもしれない。


　　　　　　　　　　　　


　それは、４月の終わり近いゴールデンウイークの手前だった。

なぜなら、ゴールデンウイークは私が家族を連れだってどこかへ出

かけなくてはならないと知っているからだ。それに、この気持ち

のよい季節は、人の気持ちも和らぎやすい、つまり、そんな時期

を狙って彼は「ホテル・モリス」と名付けた自分の別荘に私を招

いて、アイランドキッチンのハイスツールに座らせた。


　　　　　　　　　　　　


　その上で、彼は私の目の前で私の大好物のホワイトアスパラガス

を１本１本丁寧にピーラーで剥き始めた。次に、下ごしらえの終わ

った新鮮なタラの身を冷蔵庫から出して来ると、ぱふぱふした衣を

付け、油の中にそっと入れた。その後、天かすを網で丁寧にすくい

上げたると、厚切りにしたジャガイモを同じようにさっと油にくぐ

らせた。その間にホワイトアスパラもいい具合にゆだり、別のボー

ルにゴルゴンゾーラとゆで卵を刻んだソースが出来上がっている。

そうして、彼は、熱々のフィッシュ＆チップスを上質な紙ナプキン

さらにそこにはユニオンジャックの絵柄が描かれていたりするが、

その上にざっと広げて塩コショウを大胆にふった。そして、それを

パンかごのようなものに入れ替え、ホワイトアスパラ、ゴルゴンゾ

ーラソースと一緒に巨大なトレーに乗せ、ベランダに運び込むと、

がっしりしたイタリア製のダイニングテーブルの上に置いた。


　　　　　　　　　　　　


　「ああ、ずいぶん日が長くなって来たね」彼はそう前置きした

後で、「さあ、乾杯しようぜ！」と言いながら冷えたグラスに冷

えたシードルをなみなみと注ぐと、私にグラスを渡した。私たち

がグラスを合わせた瞬間、森から吹いてきた風が目の前の料理の

上を通り抜け、得も言われぬ香ばしくもリッチな香りで私の決心

を揺るがすかのように魅了した。しかし、寸前で私はまだ持ちこ

たえた。まだ、早い。


　　　　　　　　　　　　


　彼は「さて、乾杯の前に、ソースかけなきゃ！」と微笑みを浮

かべると、私の大好物のホワイトアスパラガスの上にゴルゴンゾー

ラのソースをゆっくりと落下させ始めた。そして今まさにソース

が最後のアスパラをも覆い尽くすその１００分の３秒前、私は彼が

今作ったばかりの料理の盆をひっくり返そうと縁に手をかけた。


　　　　　　　　　　　　


　その後の１００分の２秒間で私に起きた出来事は、超速で逆回

しにしたこれまでの私の人生だった。それは瞬きさえできないくら

いの短い時間に、事故にあった人間がその瞬間の出来事をスローモ

ーションで見るように再現された。


　　　　　　　　　　　　


　学校を出てから４５年、サラリーマン一筋、典型的な日本の真面

目なサラリーマン家庭に生まれ、そしてそれを踏襲するかのごと

く、同じく真面目なサラリーマン人生を歩んできた６７年の人生。

しかし、平凡なサラリーマン家庭には平穏な日々が繰り返されると

思うのは非常なる誤りであると思う。そこには悲喜劇、大小さまざ

まな事件が混在し繰り返される２４時間、３６５日連続のサラリー

マン家庭という劇を演じ続ける劇中劇がそれなのである。


　　　　　　　　　　　　


　その苦心惨憺の日々に時に絞り出されてくる一滴のエキスを名づ

けるなら、幸せと名付けようか。その束の間の一滴を得るために、

私は毎日、満員電車に押し込められ、高架橋をくぐって会社に通っ

た。その高架下で、挨拶こそしないが、日々苦楽を共にしてきた

段ボール小屋のホームレスのオヤジの方がもしかしたら、いい人生

を歩んでいるのではないかとさえ思う。


　　　　　　　　　　　　


　そして、そんな私にようやく訪れた幸運の瞬間、これを私は逃す

わけにはいかなった。今だ！今こそ、彼の愛にあふれた手料理の盆

をひっくり返すときなんだ！この瞬間をどんなにか待ち望んだこと

か。それはあたかも２度目の幸運を期待する農夫の昔話のように

だ。たまたま、昼寝をしていて切り株にウサギがぶつかってウサ

ギをゲットできた農夫がまた次のウサギがやってこないかと仕事を

せずにじっと持ち続ける話しだが、しかし、真面目に働いて来た

私に２度目のその時がやって来たのだ。私は心臓の鼓動を押さえ

て、盆に掛けた震える手に私の命の全てをかけた。


　　　　　　　　　　　　


　「あっ、待った！レモン！」彼は私が盆をひっくり返す１００分

の１秒前に立ちあがった。その瞬間、目の前の盆は見事にテーブル

から離れ、フィッシュ＆チップスは宙に舞い、ホワイトアスパラの

皿は私の目の前に飛んで来た。そして次の瞬間、私は無意識にホワ

イトアスパラの皿を全力で受け止めた。「お～ナイスキャッチ！」

彼は絶叫したが、私は手の震えが止まらないままに椅子にへた

り込んだ。


　　　　　　　　　　　　


　「フィッシュ＆チップスは拾えばいいけど、アスパラはそうは

いかないからね、ほんと、ありがとう」彼はそう言うと、テーブ

ルにまき散らしたフライをフォークとスプーンでユニオンジャック

のナプキンの上に丁寧に戻し始めた。私はホワイトアスパラの皿を

両手で抱えたまま、ただただ狼狽していたが、何も知らないはずの

彼は森に背を向けてゆっくりと立ち上がった。


　　　　　　　　　　　　


　「ほら、フィッシュ＆チップスは、やっぱりレモンをぎゅっと

絞ってからじゃないとね。



　　　



上のイラストから、「リサコラムの部屋」に入れます。

　　　＊リサコラムは毎週水曜日に連載いたします。

p.s.１

　新シリーズをはじめました。
ホテル・モリスでどんなスキャンダルが起きるのか、
あるいは....

p.s. 2　　インスタグラム、私の日常です。

　　
　　「もの、こと、ほん」は下の写真から、２０２３年４月号です。


　　　　　　　　　　　


p.s.3
　　　　E-Book「Bedroom, My Resort　 リゾコのベッドルームガイド」
　　　　の英語版です。
　　　　写真からアマゾンのサイトでご購入いただけます。

　　　　　　　　　　　


　　　　タイトルは、"Bedroom, My Resort”
　　　　Bedroom Designer’s Enchanting Resort Stories:
　　 　Rezoko’s Guide for Fascinating Bedrooms

　　　　趣味の英訳をしてたものを英語教師のTodd Sappington先生に
　　　　チェックしていただき、Viv Studioの田村敦子さんに
　　　　E-bookにしていただいたものです。
　
p.s.３
　　　　下は日本語版です。
　　　　E-Book「Bedroom, My Resort　 リゾコのベッドルームガイド」
　　　どこでもドアをクリックして中身をちょっとご見学くださいますように。

　　　　　　　　　　　　　　　　　



　　バックナンバーの継続表示は終了いたしております。

　　書籍化の予定のため、連載以外のページは見られなくなりました。

　　どうかご了承くださいますように。