第1回 「7月14日 パリ祭 開業」
「はい、」玄関のインターフォンから男性の低い声が聞こえた。
「お待ちしておりました。どうぞ、上へお上がりください。23階
の2301です」
「はい」セミロングのストレートの髪の毛がふわっと揺れ、女性は
開いたドアからマンションの中へ入った。ピンヒールが大理石の床に
カタン、カタンとリズミカルな音を立て、女性はまっすぐにエレベー
ターの方に向かった。中に入ると23のボタンを押してから、深呼吸
をした。手には大きな包みを持ち、白いロングコートにひときわイン
パクトを与えている小さなピンク色のショルダーバッグを持ってい
る。女性はシースルーエレベーターの中からじっと移り行く外の景
色を眺めながらまるでゆっくりと上空へと登ってゆくように感じて
いた。
「リン」という音と共にドアが開くと、女性は目の前の景色に驚い
た。「まあ~、きれ~い!」つなぎ目のない真っ青な海と空は高性能
のテレビの画面を見ているようだった。そして廊下には毛足の短い絨
毯が敷いてあり、青い世界を左手に見ながら音もなく突き当たりまで
歩いて行った。
「2301、ここね」彼女が玄関のチャイムを鳴らすと、
「どうぞ、お入り下さい」と、先ほどと同じ男性の声が聞こえた。
「はい」彼女は開いたドアから靴を脱がずそのまま海に向かってア
トリエらしき場所まで歩いた。
270度海を見晴らす場所がこの画家のアトリエになっているよう
だ。その広々としたラウンジのような部屋には個性的な椅子やソファ
が点在している。そして別の部屋からこざっぱりした身なりの男性が
小さな足音を立てて近づいてきた。「どうぞお好きな席へ」そう言う
と、ジャケットのボタンを留めた。
およそ画家らしくない風貌の画家は名刺を差し出した。女性はもっ
とうらぶれた雰囲気をイメージしていたのか、驚いた様子で、
「画家さんのアトリエにはとても…」と言いながら名刺を受け取る
と、そこには画家の名前と「夢、描きます」とだけ書いてあった。
「ご依頼の夢、でき上がりましたよ」画家はにこやかにほほ笑ん
だ。「うれしいです。ありがとうございます。しかし、あんなケイ
タイメッセージの内容だけで私の夢を描かれたのですか?」「詳し
くご説明いただいていたのでよく分かりました。それにパリは私も
大好きな街ですから。まあ、私も若い頃、憧れました。特にあなた
がご指定なさった場所と時間とそして、パリ祭の7月14日が大好
きで」「そうなんですね。私もずっとそうです」「それでは早速、
ご覧いただきましょうか?」
「あっ、ちょっと待ってください」画家はびくっとして、女性の方
を振り向いた。「とおっしゃいますと?」「いやその、夢の絵を前に
して、ちょっと心の準備が…」「ああ、なるほど、そうですか」画家
は立ち止まると、やさしげな笑みを浮かべた。女性はまだ立ったまま
だったが、大きく深呼吸をすると、やっと小さなピンク色の椅子に座
った。
「あの、それと念のため確認ですが、クロワッサンは合計14個ご
ざいますよね?」「ええ、もちろんです。それに1つは皿の上で3分
の1ほど食べかけて、パンくずが少し散らばっていて、そしてパンか
ごには深紅のリボン、少しピンクがかった」「リボンの裏側を少し濃
い色で塗っていただけました?」「もちろんです」「それならもう大
丈夫です」「それでは…」画家はそう言うとイーゼルにかかった白い
布に手をかけた。
「あっ、あの、すみません、ちょっと、待ってください」
「どうかなさいました?」「ああ、いいえ、確認したいことがあっ
て…」画家は女性の方をチラッと見ると、「何か問題でも?変更点
があれば、これから筆を入れることもできますが…」と不安げな表情
を浮かべた。「いえ、そうではないんです。リボンの裏まで正確に書
いていただいたんですから間違いはないと思いますが、」「それでは
何か他に気になられる点でも?」「ああ、あのエンブレムは正確に描
かれいるかしらって、ちょっと気になって…」「もちろんです。テー
ブルクロスにも、椅子の背にも、コーヒーカップにも、コーヒーポッ
トにもご依頼通り全部書き入れていますよ」「それなら大丈夫です」
「それでは…」
「ああ、すみません、ちょっと待ってください」「まだ何か?」
画家は少し怪訝な声を上げた。「あの、光ってますよね?」「エッ
フェル塔ですか?もちろん光っております。あたかも、あなたを祝
福するように、あなたを心から称えるように。そしてあなたはバス
ローブを着てその光を浴びています。ご安心ください。あなたはこ
の絵のヒロインそのものです」
「それはよかった。やれやれ、やっとやっとですね。それでは、
今度はほんとうによろしいですね?」画家はちょっとだけ皮肉めい
た言葉を使った。「はい」女性はそれだけ言うと、膝の上に乗せた
大きな包みを抱くようにしっかりと持ってから、「どうぞお願いい
たします」と宣言するように言った。「それでは行きます」画家は
つられて銅像の除幕式の幕を引くかのように神妙な顔でゆっくりと
白い布を引いた。
音もなく、パリの街がイーゼルの上でまばゆい光を放った。
アパルトマンの広いバルコニーに置かれた白いテーブルの上には、
クロワッサンが山になったかご、取手には赤っぽいピンク色の、
そして裏が少し濃いピンク色したリボンが結ばれている。絵の下に
は「7月14日パリ祭、開業」とタイトルが付けられている。グレー
を帯びたブルーは夕暮れ時より少しだけ手前の時間のようだ。
そして、そこにはエッフェル塔がそびえ、輝きを放っている。
その光を浴びるようにバルコニーに立つのは白いバスローブを羽織
った女性、そう、その彼女がそこにいた。
女性は立ち上がるとかごを持ったまま深くお辞儀をしてから画家
の方に歩み寄り、そのかごごと彼に差し出した。「よろしければ、
私の焼いたクロワッサンです」「まあ、それは、それは、まさにこ
の絵の中のクロワッサンそのものみたいな…」画家は袋の口から香り
を嗅ぐと、「ああ、香ばしい!」と言ってからしばらく目を閉じた。
そして、目を開け、パンかごを脇に置くと、「絵はお持ち帰りになら
れますか?少々大きいですから宅配もできますが、もちろん宅配料は
頂戴いたしますが…」言った。
「宅配でお願いいたします。届け先は別の住所にお願いします。
私はご連絡した住所にはもういないものですから」「お引っ越しされ
たんですか?」「はい。こちらの住所に引っ越します」と言って絵の
方に歩み寄ると、顔を近づけてじっと絵を見つめた。
「こちらとおっしゃいますと、この絵の中の場所ということで
すか?」「そうです。パリのこの場所に明日から移ります。時差が
ありますから、ちょうど明日のこのぐらいの時間には同じこの場所
に立っていると思います」「はあ~そうですか!私の仕事はご存知
のように、ご依頼主さまの夢を描くのがもっぱらの仕事ですが、と
言うことは、もしかして、…」「はい。その夢がもう実現したので
す。あなたに絵を描いていただいている間に」
「それは、本当ですか?」「はい。そうなんです。私の長年の夢は
パリにブーランジェリー、つまり、パン屋さんを出すことでした。
その夢がやっと叶ったのです。やっぱり、あの噂はほんとうだった
んですね。あなたに夢の絵をお願いすると描いたものが実現するっ
て、もっぱらの噂ですから」
「それにしても、早すぎませんか?それは私の力などではありま
せんよ」「ええ、私の力も半分はあると思います。それを目指して
今まで頑張ってきたんですから。幸いなことに、知人の、知人の口
利きでいいアパルトマン付きのテナントが見つかりました。だから
おそらくもう日本には戻りません。パリに骨を埋めるつもりです。
もちろん、最初はエッフェル塔が目の前というわけにはいきません
が、でもいつか、この絵のようにバルコニーのまん前にエッフェル
塔が見える部屋に越せるようにこれから必死でがんばります。
それと、こちらは宅配料です。こちらの住所にお送り下さいませ。
2年前に出て行った別れた夫の居場所です。やっと突き止めました
が、もちろん、未練などさらさらありません」そう言うと、女性は
深々と頭を下げてから、くるっと画家に背を向け、すぐに廊下の方
に歩み始めた。画家は慌てて後ろをついて行った。
玄関まで来ると、女性は「アビアント!(またいつか)」と言って
画家に手を振った。そして、振り返ることなく、まっすぐな廊下を
7月14日に向かって歩いて行った.。
上のイラストから、「リサコラムの部屋」に入れます。
*2023年4月よりリサコラムは毎週金曜日に連載いたします。
p.s.1
文章は音声の録音でほぼ15分で下書きを書きましたが
絵は半日かかりました。キャトーズ・ジュイエ、
パリ祭の今日から新シリーズの始まりです。
p.s. 2 インスタグラム、私の日常です。
「もの、こと、ほん」は下の写真から、2023年7月号です。
p.s.3
E-Book「Bedroom, My Resort リゾコのベッドルームガイド」
の英語版です。
写真からアマゾンのサイトでご購入いただけます。
タイトルは、"
趣味の英訳をしてたものを英語教師のTodd Sappington先生に
チェックしていただき、Viv Studioの田村敦子さんに
E-bookにしていただいたものです。
p.s.3
下は日本語版です。
E-Book「Bedroom, My Resort リゾコのベッドルームガイド」
どこでもドアをクリックして中身をちょっとご見学くださいますように。
バックナンバーの継続表示は終了いたしております。
書籍化の予定のため、連載以外のページは見られなくなりました。
どうかご了承くださいますように。
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