第６回　「女神の微笑み」



　「それだけはお断りしているんです」画家はまっすぐにクライアン

トの男性の方を見た。ブラインド越しの夏の日差しが鮮やかなストラ

イプのデザインを床に描いてはいるが、他は何もないアトリエにきっ

とした緊張感が走った。


　　　　　　　　　　　　


　画家から２ｍほど離れた椅子に腰かけている男性は仕立てのいい、

見るからにイタリアンメイドぽいスーツを着ている。彼は胸ポケット

の赤いチーフをちょっと直した後、椅子の上で脚を組み替えてから

「それはどういうことですか？」と尋ねた。威圧的な雰囲気が静かな

室内にすうっと広がったが、画家はひるむ様子もなく、「私には描け

ません」といった。


　　　　　　　　　　　　


　「つまり、それはあなたの能力の範囲内ではないという意味です

か？それとも、あなたの業界ではそんな取り決めがなされていると

いうことですか？」「そう取り決めがあるかどうか私にはわかりま

せんが、おっしゃる通り、私の能力を超えているということです」

「なるほど、あんな単純な構成の絵の模写さえ、描けないとおっし

ゃるなんて、ご謙遜なさっておられるとしか言いようがありません

な。それに破格とも言えるような価格であなたは多くの人間の夢を

叶えておられるのですから、もっとご自分の絵の価値を認めた方が

いいですね。それに、私は、その何と言いますか、」男は咳払い

をしてから、ちょっと小声になった。



　　　　　　　　　　　　


　「贋作を書いて欲しいなどと言っているわけではありません。

ただ魅惑的な微笑の似た感じの女性でいいんです。」画家は部屋

の中をゆっくりと右から左へと歩くと、また男性の前で立ち止ま

り、腕組みをした。「貴重な絵画の代名詞になっているだけに実

に難しいのです。贋作というのはつまり、本物を寸分たがわず真

似るということですが、私にはそんな風に真似ることができない

作家なのです。人間の表情というものはそこに画家の魂そのもの

が込められています。特にその絵には、画家自身が生涯ずっと筆

を入れ続け、手元に置いたものですので、そんな偉大なる画家が

そこまでして表現したかったものを短期間で描けと言われても…」


　　　　　　　　　　　　


　「いえいえ、ちょっと待ってください」男性は画家を制し

た。「それはつまり、期間とまあ、金額の問題ですか？」

「まぁそれもありますね」「それならあなたの提示されたその

金額の１０倍支払います。」「そうおっしゃるだろうと思って

おりました。しかし、描いたとしてもおそらく気に入ってはいた

だけないでしょう。その人が目をつぶってでもイメージできる絵

はその人の見方がもう固定化されています。特に、独特とも言え

る謎に満ちた微笑みは絵の中の人物に微笑みかけていると言われ

ています。そこがもっとも難しいのです。あの神秘の微笑を描く

ことは私にはできないんです」「一切文句を言わないことでどう

でしょう。失礼ですが、どんな絵であろうとも、どんな出来具合

であろうとも、私は一切文句を言いません。出来上がればここで

見ずに、そのまま持ち帰っても結構です。もちろん支払いは前金

で、この場で１０倍支払います。それでもダメでしょうか？」

「そうですね…」１０倍という言葉に画家のまつげがちらとだけ

動いたが、そう言ったきりまた画家は黙った。


　　　　　　　　　　　　


　「やっぱり無理です」「どうしてですか？私は一切何もクレーム

をつけないと言っているんですよ」「もちろん挑戦のしがいはある

と思います。しかし、描いてもやはり、私自身が納得できないはず

なんです。５００年も人々の賞賛を集めてきた微笑みに匹敵するよ

うなものを描けるなんて到底思えません。どうか、お引き取りくだ

さい」画家はアトリエから立ち去る気配を見せた。男性は立ち上が

ると、おだやかな口調で画家を制した。


　「ああ、ちょっと待ってください。そしたら２０倍でいかがです

か？私はあなたの描くあの絵の模写が欲しいです。他の人の絵では

なく」「それはもう買いかぶりとしか言いようがありませんね」

「いいえ、そんなことありません」男性は大きく首を振った。実

は私の友人があなたに描いていただいた絵で奇跡の大躍進を遂げ

たのです。彼は同級生で、サラリーマンの道を歩んでいた人間だ

ったんですが、ただ子供の頃からなりたかった職業がダンサーだ

ったんです。あなたの絵のおかげで、海外の有名どころで活躍で

きるまでのアーティストになれたんですよ。それまではダンスは

もちろん趣味でしかなかったんです。それがなんと、ニューヨー

クのブロードウェイのミュージカルの舞台に立てたと言うじゃあ

りませんか！何も知らない周囲の人間はそれこそびっくり仰天、

青天の霹靂ですよ。彼は私にあなたに描いていただいた絵を見せ

てくれました。晴れの舞台に立っている彼の神々しい姿でした。

するとまさしくその通りになったと言う事はありませんか！彼は

その絵を自分の寝室の壁に飾って、会社とダンス教室と自宅の3

点だけを結ぶように１０年間、行き来し続けてきただけです。

それが、この結果です。どうでしょう？私にもそんなチャンスを与

えてくれませんか？」


　　　　　　　　　　　　


　「ああ、思い出しました。かれこれ10年ほど前ではありませんで

しょうか？しかし、あの微笑が、あなたにどんな夢を与えてくれる

と言うんですか？」「そこです。私もいろいろ事業をやっておりま

して、夢と言えばそれはもう、常にあります。そのためなら縁起で

もお神輿でもかつげるものなら何でもかつぎます。しかし、幸運の

女神はかつげない。さらに幸運の女神には前髪しかない、だからつ

かみ損ねたら、それで終わりです。しかし、もし、いつも幸運の女

神が私のそばで笑んでいたら、それは、もう、かつぐことも要りませ

んよね。ぜひ、私にもお願いいたします。あなたの絵が、私の事業の

成功を約束してくれるのです。しかも、あなたの絵でなくてはならな

いのです」


　　　　　　　　　　　　


　「まぁ、そこまでおっしゃるなら非常にハードルの高い要求です

が、さっきおっしゃいましたが、その、２０倍の前金をいただけます

なら…それと、絵に関しては全く何のクレームをつけられないと言

うことでよろしいでしょうか？」「もちろんです。そのためにわざ

わざ３時間、車を飛ばしてここまでやってきたんですから。出来上

がれば私が直々に取りに伺います」男性はすっと立ち上がると椅子

の上に帯のかかった札束を積み重ねると、黙って帰っていった。


　それから3ヶ月後、その男のもとにメッセージが届いくと、その男

性はすぐさまやって来て、黙って自分のオープンカーに乗せて持ち帰

った。男性はその絵を社長室に飾り誰の目にも触れないように常にカ

ーテンをかけた。そして自分がその部屋に入る時だけその絵と対峙す

ることにした。


　　　　　　　　　　　　


　そしてある日、彼は社長室にある一人の社員を呼んで、女神を見

せた。「私はこれまで成功をおさめて来たが、ただひとつだけ、

実現したくてもできないことがあったんだよ。それが、この絵だ。

もちろん、本物ではないが、その本物を私はもう５回も見に行った

が、見られたのは、この絵の前にたむろする人の頭だけだった。１

度はストライキでルーブルが閉まっていて、入ることすらできなか

った。しかし、そこで思った。本物でなくてもいいのかと、自分だ

けの１番は自分の手元にあった方がいいとね。１番と言うのは素晴

らしいことだ。達成しようというモチベーションを与えてくれる。

私はそこで思った。私のモナリザが微笑んでくれたら私は目指す業

界トップになれるとね。その絵に魔法の力があるわけではない。た

だ、自分宛てに描かれた絵は自分を鼓舞するモチベーションなんだ

ってね。


　　　　　　　　　　　　


　だから明日からこの絵を君にあげよう。つまり、この社長室を君

に託そうと思う。信念が折れそうになった時はこの絵の微笑みを幸運

の女神の微笑みだと思ってじっとそのめぐみを受けるといい。

レオナル・ド・ダヴィンチが生涯、筆を入れ続けたその絵そのもの

だと思って。世界にひとつとないかけがえのない君の女神だよ

　　　



上のイラストから、「リサコラムの部屋」に入れます。

　　　＊２０２３年４月よりリサコラムは毎週金曜日に連載いたします。

p.s.１

　２，３時間でiPaddで描いたこの絵をモナリザの模写とは
とても呼べません。


p.s. 2　　インスタグラム、私の日常です。

　　
　　「もの、こと、ほん」は下の写真から、２０２３年８月号です。


　　　　　　　　　　　


p.s.3
　　　　E-Book「Bedroom, My Resort　 リゾコのベッドルームガイド」
　　　　の英語版です。
　　　　写真からアマゾンのサイトでご購入いただけます。

　　　　　　　　　　　


　　　　タイトルは、"Bedroom, My Resort”
　　　　Bedroom Designer’s Enchanting Resort Stories:
　　 　Rezoko’s Guide for Fascinating Bedrooms

　　　　趣味の英訳をしてたものを英語教師のTodd Sappington先生に
　　　　チェックしていただき、Viv Studioの田村敦子さんに
　　　　E-bookにしていただいたものです。
　
p.s.３
　　　　下は日本語版です。
　　　　E-Book「Bedroom, My Resort　 リゾコのベッドルームガイド」
　　　どこでもドアをクリックして中身をちょっとご見学くださいますように。

　　　　　　　　　　　　　　　　　



　　バックナンバーの継続表示は終了いたしております。

　　書籍化の予定のため、連載以外のページは見られなくなりました。

　　どうかご了承くださいますように。